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モチベーションワークス株式会社 および 一般社団法人iOSコンソーシアム 代表理事 野本 竜哉 による、ICT機器を活用した学習の動向をレポートするブログ。ここでの投稿内容は、所属組織を代表するものではなく、あくまで個人としての情報発信となります。

なぜ学校にICTは普及しにくいのか? -”共有”の壁-

少し前回の投稿から時間が空きました。その間、いろんなセミナーやイベントに参加したり、自分も講演したりして、現状の教育やICTによる変革など様々な事例を仕入れてきました。御陰さまで、講演や寄稿の依頼も多く頂くようになったのですが、なにぶん本業があるので、今後も両立できる範囲でやっていこうと思っています。

さて、本題です。私は「教育はICTで発展する」という持論を強くもって活動しており、実際にその素晴らしい実践事例を見てきました。それを広く広めて日本全体の教育が進化してほしいと強く願っているのですが、一方でその「阻害要因」についても注意深く見守ってきました。今回の記事ではその阻害要因の一つ、「”共有”の壁」について纏めてみました。

ネット上でよくある議論として、先生達が持っている優れた指導案や独自教材、映像、資料などを皆で共有して、それぞれの教材作成・授業研究を効率化し、授業レベルの底上げを図るべきだ! というものがあります。
私はこの取り組みは間違いなく必要な事だと思っていて、それを支援するようなサービスが企業等からも登場している事を頼もしく思っています。ですが、一方でそれらのサービスが公教育の現場に根付くかと言ったら、現時点での答えは【NO】です。公教育の場で”知の共有”が進むには大きな壁があるからです。

 

それは先生の持つ”独自スタイル”です。

 

私の知る所では、学校の現場では以下のような事が行われています。

新任の学校の先生はまず何も無い所から教室に放り込まれ、自身でなんとか「自分の授業スタイル」を形成する事を求められます。もちろん授業だけでなく他の校務・雑務も同時に襲ってくるので、日々の授業をきちんと進めるためにも教材や教案は効率的に作りたくなるでしょう。しかし、同じ科目を担当する先輩が作った資料や教材は、簡単には分け与えてもらえません。「自分も苦労して作り上げてきた成果物なのだから」というのもありますが、「自身で汗をかいて作り上げた教材や指導案はそれを熟知している自分が使ってこそ意味がある」という部分が大きく、おいそれと他の人に渡した所で使いこなせない、と考えられているからです。
このため、先生はまず自分が授業における”独自スタイル”を形成することが最初のゴールになります。この独自スタイルに、国が定める指導計画などが合わさって、授業の骨組みが出来上がる。これをベースに、毎年少しずつ経験や勘所を加えていって自身の授業を進化させていくことになります。

ここまでの話は、確かに一定の合理性があります。しかも授業は生徒の質問や指摘一つで大きく変動要素がある「生き物」です。企業では「目の前にある定常業務を素早く”こなす”」ことが業務上重要なので、ツールや資料の共有は非常に有益なのですが、学校教育の場では目的が”こなす”事ではなく、より個々の内容を分かりやすく、できるだけ深く教えることが目的なので、そこに自身の”理解”や”信念”が吹き込まれていることが重要になるわけです。企業的な発想からでてきた「共有」の概念が、学校では簡単には通じないことは認識しておく必要が有るでしょう。

 

こうなると、そう簡単には「ベテラン先生」のノウハウは「知識の集積所」には集まってこないことが予測されます。共有する事が嫌なのではなく、安易に共有する事で適切に使われなかったり、間違った解釈をされる事を恐れている先生は多いと思います。そのため、先生達は言葉の選び方には非常に気を遣っているところもあります。少なくとも、共有する事であまりにその資料が「軽薄」に扱われる事は避けたいでしょう。事実、韓国では既に指導に必要な教材が多数集められた「iScream」というサイトが存在しているのですが、現場ではここにある映像や資料をつなぎ合わせた「素人授業」を行う”クリック先生”が問題になっているそうです。いたずらに教材を共有すると、こういう問題が起きる事も懸念されているわけです。


ただ、一方でその”独自スタイル”が必ずしも最適解かと言われると、そうでは無い。このままだと、「独りよがり」によるデメリットが生まれるからです。

”独自スタイル”は、自身の積み上げによって形成され、かなり強固な信念に支えられているので、一度形成されると容易には変更できません。しかも、一定のスタイルが完成される頃にはその先生はある程度年次が上がっているので、スタイルの変更に多くの時間を費やすことが困難になってきます。
こうした事情が、「先生と先生がお互いの授業を見せ合う」ことや「ダメだしをし合って切磋琢磨する」という状況を遠ざけている一因ではと感じています。皆、自身が形成された”独自スタイル”を否定されるのは非常に「痛い」し、かといって指摘されたことをそう簡単には「反映」したくても時間が足りない。そういう状況が、「授業」をお互いに不可侵な領域にしていると推定しています。(先生がた、いかがでしょうか?)
結果、同じ科目を教えている先生との間でも、成果物がまったく異なってくるという事象がそのままに放置されます。また、生徒から見ても、先生が自身のスタイルや計画に固執して、授業の中から自由が少なくなってしまう(計画通り進める事が主眼になり、一斉授業中心の構成となり、発言や発表の機会が少なくなる等)。これは大きなデメリットになるでしょう。


では、どうしたらよいのか。少なくとも、情報共有は進めた方が良さそうです。でも、下手な共有を先生達は避けようとします。

となると解決策として出来そうなのは、「全体を共有するのではなく、所々、使えそうなパーツを共有すること」と「一定のベースラインを設定する」という2点に集約されると思います。パーツだけでは授業ができないけれど、そのパーツがあることでとても授業が効率化するようなものを集約する場所を作れば、かなりの部分で問題が解決するはずです。こうすることで、”独自スタイル”を修正しやすくなるため、他の先生の良いスタイルを取り入れやすく、柔軟性が向上するからです。特定の目的の達成だけに特化した共有から始めるのが効果的かと思います。
例えば理科・社会での映像教材なら、MAX3-5分程度の短めのパーツだけにとどめておき、どのタイミング・シーンで活用してもらうかは先生にじっくり考えてから使ってもらう、といった具合です。
ベースラインについては、そこにある材料を使う上で最低限守らなければならない約束事を定めることを意味します。例えば映像なら授業時間のXX%以内にする、など。制限はあまり嬉しくないかもしれませんが、生徒に考えてもらう、発表してもらう時間も重要なので、このしきい値の設定こそ先生達が議論して決めるべき所であり、その議論がひとつの「共有」に繋がるとも思います。


もちろん、今現在でも先生達は自身の”独自スタイル”を大切にされているので、そういう方達に使ってもらうベネフィットを明確にすることも、重要でしょう。
ここを乗り切ることができるサービスがデザインできれば、まず「共有」の壁は突破できるようになり、ICTによる学校の進化を一歩進められるかもしれません。

ということで、公教育における「共有」の阻害要因について考えてみました。
当然ながら推測や私見が多分に入っているので、ツッコミや「いやそれ違うから」的な意見は多数有るかと思います。その辺りは是非、率直な感想をお聞かせいただければと思っています。