本年も大変お世話になりました。おそらくこれが今年最後の更新になると思いますので、この場を借りてご支援いただいた多くの方に御礼申し上げます。来年の抱負はまだ来年になってからどこかのタイミングで書きたいと思います。
さて、今年最後の更新は、書籍「デジタル・シティズンシップ:コンピュータ1人1台時代の善き使い手をめざす学び」を読んだ感動を皆さんとシェアするための記事です。Amazonでの購入リンクを貼っておきますが、結論から言って教育ICTの領域に関心のある先生、保護者、そしてできれば教育学部で学んでいる学生の方や教育ICT領域で事業を行っている企業の方に広く読んで欲しい、今年一番(当方比)の良書です。AmazonではKindle版も販売されており、在庫に関係なく即読めますのでとにかく買ってください。
https://www.amazon.co.jp/dp/4272412590/
このブログ、および当方が代表理事をつとめる「一般社団法人iOSコンソーシアム」という社団法人においては常に「教育ICTの推進により学習者の学びを”拡張”する」という考え方を軸足に置いています。本ブログで長く読まれているiPad ProやApple Pencilを使った学びが「学習者」の立場で見たときに最高であることも、一人1台の学習用端末を活用している教育事例の発信も、世の中の記事や情報発信の大半が「大人の論理」や「大人の事情」の解説なのですが、本ブログはあくまで学習者、つまり小中高校においては「児童生徒たちの目線でどんな良いことがあるのか」を伝える場でありたいと考えて、ここはブレずにやっているつもりです。
そんな中、「デジタル・シティズンシップ」に関する本が年末くらいに出版されるという報を受けて、その発売を楽しみにしていました。Amazonで早々に予約して先日手元に届き、時間ができた週末に一気読みしたのですが、何度も膝を打つ場面があり、これまで幾度となく思ってきたこと、悔しい思いをしてきたことが言語化されていることに感動しました。
この本のどこがすごいのか、なぜ教育ICTの関係者や保護者、学生、企業の方にまで広く読んで欲しいのかを、今回は自身の考え方をまとめるためにもここに記載しておきたいと思います。
※本書籍にはiOSやiPadに限らずOSを問わない汎用的な内容が記載されています。当方が活動している領域にはiPadの事例が多いので本記事にはiPad関連の記述が多いですが、当方として書籍の内容がiPadにしか当てはまらないということを意図するつもりは全くありませんので予めお断りしておきます。
- デジタル・シティズンシップって何だ?
- 高校生の時、自身の「学習へのICT活用」はほぼ誰からも理解されなかった
- 必要な理由1)「学校が、生徒の情報端末の活用を積極的に阻害していた」から
- 必要な理由2)子供たちは大人たちにICTに関しては明確な不満を持っているから
- 必要な理由3)GIGAスクール端末を「税金の無駄づかい」にしないために必要だから
- おわりに
デジタル・シティズンシップって何だ?
詳しい解説は書籍の第1章がまさに「デジタル・シティズンシップとは何か」という題目なので書籍を読んで欲しいのですが、当方なりの解釈でまとめると「情報モラル教育がICTの暗の部分、つまりネガティブ面を強調し、できるだけ”使わせない”方向になりがちな教育であるのに対して、デジタル・シティズンシップ教育は逆にICTの明の部分に注目し、課題解決やより良い方策を考えるポジティブ面を”児童生徒同士が提示された想定シーンの当事者になり切ってこの場合はどうICTを使っていいくべきか”といった対話を通して自律的に気づいてもらう教育」と言えると思います。
私自身、以前KDDIに勤めていて、何度か「ケータイ教室」という活動で小中学校に講師として出向いて携帯・スマホの「正しい使い方」に関する講義をしてきたことがあるのですが、この時に使われる教材というのはネットやケータイ・スマホの「リスク」を強調しており、どちらかというとホラー的に「変な使い方する奴は痛い目を見るぞー」的な内容がどうしても出てくるものでした。(※当方が講師をしていたのは2010-12年くらいなので今は変わっているのではないかとも思います)
ただ、その後、いくつかの私立学校で「一人1台のiPad導入」を受けて、自分自身がリスクや危険性だけを伝えるやり方に疑問を持ったこともあり、一からプレゼン資料を作って私立学校向けに独自の「どうICTをうまく武器として活かしていくか」を主眼とした講演をする機会が2013ー16年くらいに何度かありました。今思えば、広い意味でこれはデジタル・シティズンシップ的な活動だったのかもしれません。
本書ではICTを児童生徒が活用することのネガティブ面の強調の色合いが強い指導を「情報モラル教育」、ポジティブ面を引き出す色合いが強い指導を「デジタル・シティズンシップ教育」として明確に区別しており、両者の違いについては第二章で他国の事例も踏まえながら明確に述べられています。特に79ページにはその両者の違いが様々な面から比較された表が登場しますが、これが非常にわかりやすい。例えば情報モラル教育は「専門家・詳しい人物による”指導”」であることが多いのに対して、デジタル・シティズンシップ教育は「普遍的、誰もが公平に”参加”」というスタイルであることの違いが明記されています。ここがめちゃくちゃ重要です。
とはいえ、「情報モラル教育」自体はデジタルの世界で起こした過ちが半永久的に記録され、本人の人生をも左右する危険性があることなどを正しく認識するためにも必要であるように思います。ただ、これを「だれかから”こういうものだ”と強制的にインプットされたり、”考えてみよう”と一見自由度があるような議論の場が設定されても結局は”あぶないことはやめよう”という悪い意味で”教育的”な方向性に半強制的に誘導される」のと、「自分たちの身近で起きている”LINEがいつまでも終わらない”とか”グループから村八分にされる”といった課題に対して(先生が介入せずに)自由に議論して結論を考える(結論はクラスやグループごとに違っても良いし、違いを認識することが重要)」という方向性では、全然、生徒の腹落ち感が違うわけです。前者はある意味、先生が「いいことを教えた」と悦に入りやすい方法なのですが、それで児童生徒が本当に納得していたり、SNSやスマホの使い方を見直す「行動変容」が起きるかと言われたらその可能性は学年が上がるにつれて「低い」と言わざるを得ないでしょう。
何よりも、子供たちは潜在的か健在的かは人それぞれですが、大抵の場合、大人たちの「ICTの利用に対する制約や無理解」に対して不満に思っているからです。次の事例はn=1にすぎない当方自身の経験談ですが、おそらく「ICTを生徒として学習に実際に使って社会に出ているほぼ最初の世代」としてどうしても伝えておきたいことなので、あえて当方の昔話を書きます。そういうのいらないっす、という人は次の章は読み飛ばしてもらってもOKです。
高校生の時、自身の「学習へのICT活用」はほぼ誰からも理解されなかった
当方、高校生の時は実は「超落ちこぼれ」人間でして、あまり学校にまともに通わず、自宅で開通したばかりのフレッツ・ISDNで定額制ネットが実現したこともあり、ネット上の住民の色合いが強い状況でした。ただ、そのおかげで一定のコンピューターリテラシーを自分で勝手に習得し、プログラミングについては当時のセンター試験のIAIIBのBASIC程度であれば過去問も余裕で満点取れる、英語についても苦手意識がなかったので海外のニュースサイトなどを見て当時大好きだったPC系情報(VAIOとかSONY関連情報)を漁って最新情報にいち早く触れる、みたいなことが趣味でした。20年超えてもこの辺は何も変わっていないな、と思う一方で、昨今の新指導要領や入試改革で英語とプログラミング、ICTの活用が急にフォーカスされている中、個人的には「20年おせえよ」と思うくらい、ある意味当時の自分からしても「別にそれくらい普通だし」と思っていました。むしろ、高校にはこの領域でもっと先をいくようなすごい奴がたくさんいて、cgiを自分でいじって掲示板の投稿回数によってレベルアップするような仕組みを実装しているやつとか、html全部理解してテキストエディタだけでグリグリ動くようなHPを作っちゃっているやつとかが普通にいたくらいなので、自分なんかはまだまだビギナーくらいの感覚でした。
そんな中、高校3年生の時に、SONYが「CLIE」というハンドヘルドコンピュータ(PDA:Pearsonal Data Asistant)、今のスマートフォンの原型みたいなものを発売し、当時貯め込んでいた小遣い貯金を全投入して購入し、学校に「電子辞書」と言い張って持ち込んで使うようになりました。それまで全く興味のなかったPHSも、接続することでモバイルデータ通信ができるということもあり、急遽契約したりしました。こうした事例を、当時の自身のHPで公開したところ結構な反響があり(学生服のポケットにCLIEが入っている絵は当時の大人たちからすると相当面白かったらしい)、学校の先生や親以外の大人からいろいろ教えてもらって端末の設定を最適化したり、アプリを追加してさらに使い勝手をよくしたり、という経験をしました。今のスマホとやっていることは全く同じです。
その中に、CLIEでBASICのプログラムを動かせる仮想アプリがあったので、塾の自習室でセンターの過去問を実際に入力して手元で動かして「確かにそうなるよね」と検証してみたり(当時のノートPCはお世辞にも可搬性があるものとは言えないものが多かったので、出先でこれができることは革命だった)、ほぼ語彙が無限にあるオンラインの辞書を使って英語や古典の学習に使ったり、メモリースティックに英語の教材CDの音源を入れて音声もどこでも聞けたりと、たぶん当時としては最先端の使い方で学習をHackしていたと思います。が、これを見て親も先生も当時付き合っていた彼女も「そんなことやってないで普通に受験勉強しろよ」としか言わず、実際に超落ちこぼれということもあってこの学び方でカバーできた領域は受験のメインストリームにおいてはごく一部でしかなかったことは事実なんですが、この時の英語とプログラミングの経験が結果として今の人生で一番大事な自身の強みになっているのも事実だったりします。
なによりもしんどかったのが、当時の大人たちが総じて、ICTを学習に使うことは”真の学びではない”とか”ズルするな”といった具合に、ICTを「チート扱い」することでした。しかし、自身は自分のHPを通じて親や先生以外の「前線で活躍している大人」の声を直接聞くことができたし、メールや掲示板で日常的にやりとりをする「憧れの大人」がいたことで結果的に救われたのですが、周囲の大人たちにはこれまでの教育の前提である「ペンたこができるまで書く」「ノートを何冊も使う」といった旧来の学び方「だけ」が正しい学びであるといった前提で来るので、そういう人たちと対峙したり、諭されて使うことを止めるように言われることが少なくなかった。実際に「そんなもんばっかり使ってるとバカになる」と言い放った先生すらいたくらいですからね…(この恨みはいまだに忘れていないぞ○○先生よ…)。結果的に自分はそういう人たちの声を「聞かない」という判断をして、それゆえ仲違いした人も少なくなかったのですが、個人的には当時のこの自分の判断は過去に戻って褒めてあげたいと思っています。
さて、ここまでは当方の「昔話」なのですが、20年ほど経過した今日、この内容は果たして「昔話」になっているでしょうか。今でこそ、ICTを使った学びに関する情報は増えてきて、実践者も増えてきましたが、多くの大人や保護者、場合によっては先生たちの頭の中は、上記のような状況からアップデートされず、旧来のチョーク&トーク、紙と鉛筆、ICTなんかはチート、という価値軸のまま、という人が少なくないのではないでしょうか?
ここに、デジタル・シティズンシップ教育が必要な背景があります。
必要な理由1)「学校が、生徒の情報端末の活用を積極的に阻害していた」から
すでに10年前くらいから「学校に一人1台のコンピュータが必要」というかけ声はあり、少しずつは普及が進んではいるものの、2019年くらいまでは「一人1台なんて全然先の話」というくらい、全国的に見れば牛歩的な進捗でした。
しかし、ICTの導入が進んでいく中で、学校が多少変化しているか、というと、そうとは残念ながら言えない状況が続いていました。究極的には、前項で示したような「ICTは不要なもの」「学びの本質ではない」「チートである」という論理が根っこにあったのかもしれません。
その2019年の夏、当方が代表を務める一般社団法人iOSコンソーシアムにて行った特別講演で、近畿大学附属高等学校の乾 武司先生が、本書にも登場するOECDのPISAのデータを引用しながら講演を行ってくれました。その中で、乾先生がおっしゃった言葉に、以下のものがあります。
▼「学校が、生徒の情報端末の活用を積極的に阻害していた」
ICTを導入している日本国内の多くの学校では、「よからぬこと」が起きないように、物凄い厳しい機能制限をして、中には決められたWebページ以外は見せない「ホワイトリスト」方式を使ったり、アプリは最初から入っているもの以外は一切入れられないようにしたり、授業中には許可されている時以外は端末をロックしてしまう機能が入っていたりといった使い方が各所で定着しつつありました。近畿大学附属高等学校はそうした「機能制限」をできるだけ取り払い、生徒に対して学習以外も含めて自由なネット接続、アプリ入れ放題、校内どこでもWiFi利用可能という環境を打ち出し、活用の「日常化」に成功した学校の一つです。
この学校の事例はあくまで高等学校ではありますが、同校は生徒が日常的に部活や委員会、自宅学習など「授業以外」でもICTを活用できる環境を構築しました。なぜならば、ICTは日常のちょっとした不便なことや学校生活上の課題を解決するためのひとつの武器であり手段なので、自由な使い方や同じ課題を経験した人が作ったお助けツールをうまく活用することで、学校生活をより豊かにできるからです。この考え方は私自身が高校生の時に経験したことと全く同じなのですが、残念ながらその生徒たちの考えていることを大人はすべて理解できるとは限らない。でも、理解できないことだけど「きっとそこには生徒たちなりの考えがあるはず」ということで、それを「黙認」したり「許容」してくれることで、生徒たちが大きく成長したり新しいスキルを身につけられるケースがたくさんあるわけです。
しかも、先生はこういうICTの活用方法を特に生徒に説明したり教えたりしていません。今の生徒たちはデジタルネイティブなので、自分の経験である程度知っていることは普通に使ってきますし、同級生でできる人のスキルを簡単に共有してもらったり盗んだりして自分のものとして活用してきます。その最も端的な例が、名古屋経済大学市邨中学校の中学校1年生で、入学と同時にコロナによる休校で、iPadの使い方をほぼ何も教わっていないのに生徒同士で学び合ってこういう作品を生み出した、という事例を示す以下の動画です。
▼名古屋経済大学市邨中学校 中川琢雄先生
入学と同時に休校になった中1生たちの成長記録 Pages,Keynote,Numbers,Google Earthを活用したバーチャルワールドツアーとポスター制作を通じた地理の実践
こういう作品や発想は、「ICTを使うことがチート」という感覚が強いとなかなか出てきません。しかし、この動画の作品はおそらく「まともにICTの使い方のレクチャーを受けておらず、ほぼ学校に登校もできていない中1の生徒たちが作ったもの」としてはみなさんの想像を超えてきていると思うでしょう。しかも、「私学だから環境が整っているんでしょ」という声がよく聞かれますが、この学校は動画にもある通り、最初の1日にiPadを渡すために最小限のレクチャーしか対面授業は提供しておらず、そのあとは遠隔ですので学校の施設はほぼ活用されていません。私学の有利とされている部分はほぼ、無関係にこれが起きたのです。なお、一人1台の端末配備が2021年の4月までに全国の公立学校でも行われ、それが利用できるようになると土俵としては同じになるので、これからはもう「公立だから」と言い訳はできなくなります。結局のところ、大人たちが児童生徒の可能性を信じられるかどうかで、結果は大きく変わるのです。
こういう児童生徒たちに「情報モラル教育」として、「あれは危ない、これややめろ」というネガティブ中心な指導をわざわざ学期の最初に行うとどうなるでしょうか。おそらく、やっていいことも、先生や「情報モラル」に忖度して、あえてやらなかったり、「それってやってもいいの?」という姿勢が強くなって、結果として「模範解答として示されたものをなぞる無難な作品作り」みたいな感じで終わってしまうでしょう。一方で、デジタル・シティズンシップ的に「こういう課題に対してどう取り組むか」「こういう制約条件のなかでどう表現するか」という考え方で同じような課題に取り組めば、全くアウトプットは違ってくるはずです。道義的に問題のある作品がもしあったら、それは後から指導すればよく、学校はICTを活用した教育においても「安全に失敗できる場所」であるべきなのです。
必要な理由2)子供たちは大人たちにICTに関しては明確な不満を持っているから
先ほども少し書きましたが、2020年はコロナによる混乱によって、ICTの教育活用の議論が急進し、一気に動いたことはこの業界に関わっていた人であれば説明の必要はないでしょう。
しかし、この期間中に、コロナによる一斉休校で先に示した動画のように成果を揚げた学校があった一方で、児童生徒やその保護者がこの期間の学び方に対して相当な不満を抱えていたことが、当方の独自の調査でも見えています。オンラインでの調査なのでサンプルが偏っているであろうことを割りひいても、これだけの影響があります。
▼アンケート結果のごく一部ですが、保護者(n=100)の学校に対する満足度
▼児童生徒(学校がICTを活用した学びを継続した人とそうでない人での傾向の差)
保護者については、学校がある程度ICTを使っていたか否かで切り出し分析もしてみましたが、実はどちらも一定の不満を持っていました。一方で児童生徒は、ICTをうまく活用し、一定の解決策を家庭や児童生徒に委ねたケースでは、満足度が急伸しています。特に上記Fig3の生徒の声は実に正直なものと言えるでしょう。プリントなどアナログな手段だけに終始した学校の生徒は、明確に「不満率」が高くなっている。
このアンケート結果のデータは以下からご覧いただけます。
https://ios.or.jp/wp-content/uploads/2020/12/944f1437f9f887e7ff791ac1f5856f49.pdf
また、不満を抱いている生徒の声の中にはこんな声もありました。
・通っている学校では大雨の際、一部の生徒は自宅待機(保護者に送迎をしてもらえる人は登校)でしたが他の生徒は授業が進みます。せっかく休校中にZOOMを使って授業ができることを確かめたのだから、自宅待機の生徒に授業配信をするべきだと思いました。自分だけが授業に遅れるのではととても休める気持ちにはなれません。
この声からは、結局コロナ禍が一定の収束を見せた後、学校が「日常的な対面授業の運用に戻ってしまって、有事の際にそのノウハウが活かされなかった」ということを窺わせます。
しかし、もし日常的にこの学校でデジタル・シティズンシップ教育が展開されており、生徒側がこの問題を解決するための知見や解決策の案を持っていたとしたら、学校は少なくとも慣れていないオンライン配信は登校できている生徒の一部の知恵や力を借りながら、先生たちの負担を最小限に対応ができていたかもしれません。もし情報モラル的なネガティブな側面が強く植え付けられていると、同じクラスメートが授業を受けられないという状況であったとしても、先生たちが普段やっていることのルールを超えてそれを実現することに対して二の足を踏むケースが増えるでしょう。
情報モラルをはじめとする「あれをやるな、これをやるな、ルールを守れ」的な指導は、たとえ生徒側が解決策や対応策を知っていたとしても、それを先生の「聖域」たる授業で提案したり発揮することに対する「忖度」を生む危険性すらあるのです。
必要な理由3)GIGAスクール端末を「税金の無駄づかい」にしないために必要だから
ここまで書いたら、もうわかっていただけると思うのですが、一人1台の端末を配備することの最大の目的は、児童生徒たちに対して社会で実際に問題解決をする際に有効なICTの使い方を少しでも早い段階から身につけて、学習や学校生活を豊かにする経験をしてほしいという考え方が大きいのです。学校の先生はICTを活用した問題解決を(コロナの一時期を除いて)もしかしたらそこまで多く経験できていないかもしれない(∵学校の多くの業務はアナログなままで成り立っているから。これ自体は別に先生が悪いわけでもなんでもない)。
そんな中でICTの活用をする上で「ネガティブ」的な側面の強い情報モラル教育的なアプローチばかりがとられていくとどうなるか。児童生徒たちはある意味「大人たちの空気を読む」ことに対しては天才的です。結局「忖度が忖度を呼ぶ」ことになり、大人たちが「それくらい自分たちで判断してやってくれてもいいのに」という領域ですら、大人たちが「あれだめこれだめ」を普段から言い続ける中ではたぶんやらなくなるでしょう。
以下は、本書を読んで当方が感じたことをAmazonの書評に正直にぶつけた内容です。強い表現も含まれていますが、これが当方としては偽らざる本音です。
2021年の4月から多くの小学校・中学校で「一人1台」の教育用コンピュータが配備される予定ですが、おそらくその配備されるコンピュータに対して「情報モラル教育が行き届いていないから、機能を大幅に制限する」「子供が何をするか分からないから、配布したコンピュータの持ち帰りは許容しない」という対応をとる自治体が多くなることと思います。これにより、Webページは一部の許可されたものだけ、アプリは配布されたときに入っているものだけしか使えないということになる可能性が高いと思われます。
しかしこれは、本来「自分でアプリやWebページを探して問題や課題を解決する」という、ICTを活用する最大の利点を自治体や学校が自ら否定していることに等しく、私たちの血税を元に配備される教育用コンピューターの価値を著しく下げます。極端な言い方をすれば「税金の無駄遣い」に近い状況です。
しかし、私たち保護者や大人はすぐに「子供たちに好き放題やらせたらろくなことが起きない」と子供たちが未熟であることを理由に制限を肯定します。しかしそれは本当でしょうか?いまの子供たち(いわゆるZ世代)は、スマホ・デジタルネイティブで、みなさんよりも内容によってはICTに詳しい領域を持っています。彼ら自身のほうがアプリや特定のWebなどの領域で起きる課題や問題に詳しいため、彼ら自身で「こういう場合ってどうする?」「自分はこうしてるけど」という議論をしてもらった方が、「危ないからやらない、使わない、近づかない」という方向に(指導していながらよくわかっていないかもしれない先生が)半ば誘導的に指導するよりもはるかに学びが多く、むしろ大人たちのほうが子供たちから学べることが多い。実際、一人1台を早くに実現した私立学校ではすでに生徒から先生がICTの活用テクニックを教えてもらったり、先生が想像もできなかったようなとんでもない作品を生徒が自ら工夫して驚いていたりします。
この本にはそうした考え方も含め「デジタル時代を生きる子供たちの力を信じて、大人たちがどうそれを伸ばすためにふるまうべきか」のHow toが書いてあります。教育領域向けの本ですが、本当は公立の小中学校に子供を通わせている保護者にこそ読んで欲しい一冊です。
そして、自分の子供の学校が、せっかく配ったコンピュータに対して「あれもダメ、これもダメ、これしか使っちゃダメ、持ち帰りなんてもってのほか」というスタンスであるようであれば、保護者としてぜひとも声をあげて欲しいのです。でないと、「何かがあったときのリスク」や「先生たちが子供たちよりもICTに詳しくなるよう研修を終えてから」という絶対に解決しない言い訳を並べて学校は動こうとしないところが大半でしょう。
コロナが今後どうなるかも分からない不確定な世の中、ICTをうまく使って学習も、仕事も進めるのが当たり前の世の中、保護者である私たちも頭の中をアップデートしないといけません。その助けになるための情報がわかりやすくまとまっているのが本書です。特に第3章を読むと、日本のICT活用がいかに諸外国から遅れているかを思い知ることができるので、おすすめです。
要は、コンピュータの価値は人間がイチからやってたらとても大変な計算であったり制作であったりを、先人の知恵をうまく活用する形でショートカットし、課題の解決や強みを加速させるためにあるのに、それを限られたシーン(主に大人が価値として認識でき、リスクがほぼないとわかっている非常に限られたシーン)にのみ使えるように価値を大幅にデグレする、あるいは情報モラル教育を通じて結果的にそういう方向に仕向けることは、言葉を選ばずに言えば血税の無駄遣いにつながるということです。
その結果、ほとんど端末が使われなくなったり、子供達が「ほぼ何もできない端末」と認識してラフに扱って故障率が高まり、無駄に修理代がかかるようになったとしたら。どちらも税金の使われ方としては悲惨な末路でしょう。
おわりに
結びとして蛇足ながら、2点書きたいと思います。
1点目は、本書を読んで「次にこうしたい」と当方が考えていることです。本書には第4章に実際にデジタル・シティズンシップ教育を行うための授業案が、小学校低学年版、高学年版、そして中学生版と3種類収録されています。いずれも学級活動や道徳などの活動でアレンジして使いやすい指導案もついており、現職の先生はこれだけでも買う価値があります。
一方で、当方はこうしたデジタル・シティズンシップ教育を、道徳・学級活動・総合的な学習(探究)の時間といった特別枠だけではなく、通常の教科指導の中に組み込んで、大半の先生が日常の授業の中で当たり前のように実践できるようにならなければ真のデジタル・シティズンシップ教育が実現できないであろう、ということも考えています。
先に動画を紹介した近畿大学附属高等学校では、生物や化学の授業時間において、先生があえて教科の単元の内容を教えずに、生徒自身に「お題」を与えて、それを攻略する中で教科書やWebなどを参照し、自ら教科書や指導要領上で必要な知識を結果的にカバーしている、という学び方を実践されています。(例:共有結合における電子の動きをコマ撮り動画を作成して示せ。A班はH20、B班はCO2など、班によって課題が異なる) これもデジタル・シティズンシップ教育で育むべき能力(OECDやISTEなどが提示する、これからの児童生徒が不確かな時代を生き抜くために必要とされるコンピテンシー)を習得するためには必要なスキルを養える貴重な機会だからです。ある意味、教科教育もこうした「情報モラル教育」的に、あらかじめ定められた小さな箱庭の中で結論ありきの形だけの議論をさせているようでは、せっかく手元にICTがあっても効果が十分に発揮できないことが危惧されます。究極的には、デジタル・シティズンシップ的な学びが意識されないくらいの形で学校における学びが再定義されるところまでいかないといけない。多分、ここまでいけば本書の中でも紹介されるSAMRの「R」まで到達したと言えるのではないかな、とも思っております。
そして2点目は、先のAmazonの書評でも同じことを書いていますが、GIGAスクール構想で全国各地に配備されたコンピュータが、機能制限ガチガチで、持ち帰りもできない、アプリの追加ももちろんできない、家のWiFiにも繋げない、なんてことになったら、デジタル・シティズンシップ教育の考え方を以て、保護者として声を上げられるようになってほしい、というものです。このような行き過ぎた制限は結果として税金の無駄遣いであり、子供達の可能性に対する学校の「不信」であり、教育的配慮からは程遠い意思決定だからです。だからこそ、この本は公立の小中学校に通う子供を持つ保護者にも読んでほしいのです。
もちろん、ICTの使い方に対してデジタル・シティズンシップ教育がしっかり行われたからといって、機能制限を緩めたり自由に使うようにすることに対する心理的な不安は常にあることでしょう。
そんな方に、最後に先のパートで登場した近畿大学附属高等学校 の 乾 武司 先生の別の名言を記しておきたいと思います。
「万引きをする人がいるからといって、スーパーを閉鎖するなんてことはないですよね?」
常にマイナスの働きをする人は少なからずいます。だからといって、その1人のためにほかの99人の学習の権利が阻害されるようなことがあってはなりません。子供達のICTを活用した活躍に対して、大人の私たちとしては、ぜひとも信じて、その可能性を伸ばせるように、社会の一員としてサポートし、見守る気概を持ちましょう。問題が起きたら、その時にみんなで建設的に(他の子供達の権利を守りつつ)対応策を考えれば良いのです。トラブルが全くないことをやることが、教育ICTを進めていく目的ではないのですから。